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未来に伝えたいさしがねの技(第13回)

◆田子家規矩術の伝承

 前回は五代目棟梁である父光一郎を紹介させていただきました。また、田子家では初代富蔵から私六代目までの二百年程の間に、規矩術をどのように伝えてきたかについて、父光一郎から伝承されました口伝と先代棟梁が残してくれました文献を基にお話しさせていただきました。
 約二百年の間伝承していくというのは、その時代の背景とその時々の先代の棟梁の意思でそれぞれに代わってくるように、一口では表現できないものがあると思います。いずれにしても、聖徳太子が日本に仏教を伝え、大和平野を始めとする各地に、朝鮮半島や中国大陸から移住した工匠によって寺院を建てることにより、その技術が日本に伝えられ、同時にさしがねが日本に伝えられたと言われております。そして聖徳太子は天皇中心の政治を目指し、遣隋使を派遣し、冠位十二階や十七条憲法を定め、また、四天王寺、法隆寺などを建立されました。
 このころから、さしがねの技(規矩術)が始まったと考えて良いと思います。規矩術・木割がなければ現在存在している法隆寺などの建物は出来なかったでしょう。

 規矩術の伝承は、特に江戸時代に文献として残され、伝えられてきたと考えます。いずれにしてもさしがね(規矩術)は日本伝統の技であることは間違いありません。

四十年ほど前まで、日本の大工さんは木造建築・社寺・数寄屋・住宅等を自社でさしがねを使って墨付けをし、加工も組み立ても行っておりました。それが現在では、コンピュータで墨付け・加工を行うプレカット工場なるものが出来、ほとんどの大工さんが9割以上自分で墨付けをしておりません。おまけに建築図面や規矩図までCADで書いております。
 これは時代の背景で仕方ないことではありますが、一千年以上前から祖神が努力して伝承してきた技術は、自分で図面を描き、自分で図面を基に材木を調達し、癖を読みながら材木に番付を振り、墨付けし加工していき、そして組み立ても自分でやりました。そこでは基本となる規矩術・木割が大事であり、大工になったら皆さんが規矩術を勉強したものです。また勉強しなければ、家を建てることが出来ませんでした。
 先ず棟梁は墨付けをする前に各図面を図板に墨さしで書きます。平面図・基礎伏図・土台伏図・二階台伏図・小屋伏図・矩計図を書いて番付を振ります。番付は棟梁によっては、登り番付・降り番付に振る棟梁がおります。そして狂いのない素性の良い、乾燥した木材を二本選定して、棟梁が正確に基尺の尺竿と矩計りを作ります。そして何度も検証して尺竿を合わせてもう一本作り、建物の完成までその尺竿を使用して仕上げていきます。そして木組みの角度に必要な型板を作り、難しい角度の規矩定規も棟梁が作ります。これらは墨付けをするのに大切な技法であり、規矩の基本です。


 私は十九歳の時に技能五輪全国大会に出場しました。当時は今みたいに事前に課題が発表されておらず、どのような課題が出題されるか当日でないと解りませんでした。ですから県大会で選出されてから訓練校に泊まり込み、父を始めとする群県連の先生方に規矩術の特訓を受けてから出場したわけです。
 この時が、私が規矩術を本格的に勉強する大切な機会となりました。有難いことに課題に何が出るかわからないということでしたので、想定される広範囲の課題の勉強を指導して頂けることになったわけです。残念ながら、私は大会には入賞できませんでしたが、規矩術の重要性を身に染みて体験し、昭和五十八年には第一回一級技能グランプリに出場して、さらに規矩術を勉強し、一人前にさせて頂きました。その恩返しにと、当時お世話になった訓練校の講師を十年勤め、そして校長を十四年、計二十四年間職業訓練校でお世話になり、技能検定委員も二十二年間務めさせて頂いております。
 ふと気が付くと五代目光一郎の後を追いかけるように進んでまいりました。今考えますと、父は自然に襷を私に渡していたのだなと改めて思います。

 私には師匠としての父しか思い出がありませんが、残してくれた文献と口伝書の中には、ところどころに父としての心の思いを感じるところがあります。私のことが掲載された新聞記事や雑誌をきちんと整理し父の直筆でコメントが残されており、亡くなった後に初めて父親の思いを感じた次第です。
 父は亡くなりましたが、規矩術の伝承は残し伝えてくれました。 改めて五代目棟梁光一郎に感謝いたしております。
 次回は規矩術の極意をもう一度お伝えしたいと存じます。

田子式規矩法大和流六代目 棟梁 田子和則

月刊 住宅ジャーナル 2016年12月号(VOL97)に掲載