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未来に伝えたいさしがねの技(第12回)

◆田子家規矩術の伝承

 前回は三代目棟梁 角太郎、四代目棟梁 隆司についてご紹介いたしました。今回は私の父であり、師匠でもあります五代目棟梁 光一郎を紹介させていただきます。

◆五代目棟梁 光一郎

 五代目光一郎は大正5年12月10日生れ(三碧木星)辰年であります。ちなみに私は昭和27年2月10日生れ(三碧木星)辰年で父光一郎が36歳の時の子であり、本命星と十二支が同じです。父(光一郎)は昔の高等小学校を卒業すると、四代目隆司の元で修行を始めました。
最大の試練を受けたのは17歳の時です。大事な仕事で長者柱の細工を間違い、使用不能にしてしまったそうです。父はその時、内心、大工をやめようと決心を固めたそうですが、四代目棟梁(光一郎の父)に諭されました。
「お前に本当の実力が備わっていれば、こんな間違いはしなかったはずだ」 この一言が父を奮起させ、この日から180度転換、20歳までは遊びも返上して夜間の前橋商工専修学校建築科に通い規矩術を勉強し、特に数学の三角関数を学び、先祖の遺してくれた書物、主に三代目棟梁角太郎が遺した巻物を中心に納得のいくまで勉強したそうです。
仕事も任されるようになった頃、母(なか子)と結婚。徴兵から戻った後も勉強を続けました。

 30代でついに規矩の理論を解明し、もっと簡単に大工さんが規矩術を使える方法はないかと研究を重ねました。規矩術を学ぶには、本来は尺を単位とする方が理解し易いのですが、技能士の試験や訓練校の教科書などもメートルを単位としていましたので、五代目光一郎は昭和37年に田子式メートル法さしがねを考案いたしました。
しかしながら、大工さんは尺で規矩術を学んできており、メートル法をなかなか使い熟せませんでした。そこで五代目光一郎も考え、尺の理論と変わらないさしがねを新たに考案して新潟の三条市にて製造し、全国建設労働組合を通じて全国に販売すると共に田子式さしがねの講演会(規矩術講演会)を全国で開催しました。

 五代目光一郎の名は規矩術(さしがね)の田子と全国で称されるようになり、更に規矩術の研究を重ねる努力を続けました。
父は、「規矩術にこれで一人前という言葉はない、一生が勉強であり祖神が残してくれた技に感謝してさらに勉強を重ね、そこに出た答えは祖神のお陰であり、後進に伝えてこそ未来に技と心が伝わるものだ」と言いました。
 田子式さしがねを考案して以来、全国は勿論のこと特に昭和39年に地元の職業訓練所の設立に尽力し自ら訓練所の講師を務め、群県連の技術対策部長も兼ね、群馬県技能検定委員、中央技能検定委員、そして現在の前橋職業訓練校にも多大に貢献し、昭和48年に労働大臣賞を受賞、昭和51年に卓越技能者(現代の名工)に選ばれ、昭和54年4月には黄綬褒章受章、昭和62年4月に勲六等単光旭日章を受賞いたしました。
五代目棟梁 光一郎は大工の家系に生まれ厳しい修行にも耐え、規矩術(さしがねの技)を極めて全国を回って規矩を指導し、大工技能の育成に貢献いたしました。
90歳を過ぎても私を呼びつけ規矩の話をするのが楽しみの一つであり17歳からの79年間、96歳で亡くなるまでずっと規矩術を勉強していました。93歳の時には五代目棟梁 光一郎として、1m幅の用紙の巻物で30巻余り、約450mの口伝書等を現在の衣装箱くらいの大きさの箱5箱に詰め、彫刻その他を含めて私に遺してくれました。五代目光一郎は一生涯をさしがねの技(規矩術)にささげた人であったと思います。
大工でありながら日本の名工、そして勲章までいただけたのは、今まで説明いたしました祖神代々の棟梁と、私の母(なか子)の女房としての支えがあったからであり、これは家族、弟子たちの誰もが認めるところであります。父が勲章を頂いた時には、母に着物を新調してやり、感謝の念を伝えているのを見て、なんとも胸が熱くなりました。母の器の大きさを感じた次第です。
母は父 光一郎を平成23年に見送った後、平成25年1月に共に96歳で天寿を全うしました。

私は五代目光一郎から渡された襷をこれから誰かに渡していくことに責任を感じております。
おそらく七代目は世襲制でないと思っており、このことは五代目には了解済みで、「技の前に志のある人であれば後はお前に任せる」と言い遺してくれました。
父の遺してくれた口伝の一部を次回に披露させていただきます。

田子式規矩法大和流六代目 棟梁 田子和則

月刊 住宅ジャーナル 2016年11月号(VOL96)に掲載