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未来に伝えたいさしがねの技(第11回)

◆田子家規矩術の伝承

 前回は田子家規矩術の伝承ということで、初代棟梁 富蔵、二代目棟梁 久平をご紹介いたしました。
今回は三代目棟梁 角太郎、四代目棟梁 隆司についてご紹介させて頂きます。
四代目棟梁 隆司は私の祖父にあたります。従いまして四代目、五代目は私自身の知る限り、また感じたことをお話しさせて頂きます。

◆三代目棟梁 田子角太郎

 私の曾祖父にあたりますが、父の光一郎(五代目)からは一番詳しく角太郎棟梁の話は聞いております。 父が言うには田子家代々でずば抜けて頭の良かった人と聞いております。ちなみに19歳のころ東京に出て修行したそうで、三巻の巻物もその時に書き残した書簡であります。
一巻二巻は規矩術の軒廻り垂木大和割之傳と記され十一項目に渡り記されており、隅木・垂木・扇垂木・木負・茅負・裏甲等さしがね使い(規矩術)、などについて書かれております。

 三巻は懸魚の割り付け・六葉・菊座・降り懸魚(鰭)・のほか虹梁の木割ほか意匠などデザインがすべて手書きで書かれております。
そのほか建築儀式に纏わる祝い道具の作り方などが書かれております。この三巻の巻物は田子家の代々の棟梁に画期的な影響をもたらす資料となります。
その他東京の修行先で購入し勉強したと思われる大工に纏わる規矩術・木割術を中心とした書物、そして床の間・長押・欄間など造作意匠などの関連する様々の貴重な書物など、本の持ち主田子角太郎と書かれた本がたくさん残っております。



 その中の一つを紹介いたしますと、明治16年正月良辰求・日本国内・上品・群馬県下南勢多郡日輪寺邨・大工業本・田子角太郎主と誠に達筆な字で書かれております。
書物からは三代目が明治16年の正月の良い日に、とても貴重な本を手に入れ勉強しようという意気込みが伝わってきます。
私の父光一郎の話によりますと、三代目は事情により東京に修行に出て勉強に勉強を重ね、田子家の棟梁としての腕も素晴らしかったと聞いておりますが、残念ながら短命で59歳で亡くなっております。しかし三代目が残してくれた巻物三巻ほか多くの書物や作品は、代々の棟梁にとって大変貴重な資料として受け継がれております。これらの資料や作品は、角太郎自身のためと自分の息子四代目 隆司に伝承するためのものと思います。

◆四代目棟梁 田子隆司

 棟梁 隆司は私の祖父であります。父の話によりますと、三代目 角太郎は短命であったのと事業で借金も有ったようで、隆司棟梁は大変な苦労をしたらしく、父光一郎も若い時からお爺さんを助け一生懸命働いたそうです。しかし父光一郎が戦争で徴兵にとられ、仕事も少なくなり、少しあった土地に作物を作り毎日の暮らしが大変な時期であったと聞いております。
そんな中、父が兵隊から無事に帰り本業の大工の仕事に戻ったそうです。父の兄弟も男が三人おりまして全員が大工になり家業を助けたと聞いております。お爺さんと父の努力で仕事もだいぶ隆盛になり、弟子も4、5人雇い入れ仕事も安定したと聞いております。家業も安定して父光一郎も前橋の大工職組合の組合長も務めるようになり、田子家代々の規矩の伝書と五代目を渡したそうです。父の話によりますと、隆司棟梁は父には相当厳しかったそうです。そして後で話しますがその厳しさが五代目が偉業を成し遂げるきっかけになったと聞いております。
四代目隆司は私が13歳の時、享年73歳で亡くなりました。
父光一郎には鬼のように厳しかったお爺さんでしたが、三男一女の4人の孫のうちの末っ子の私を何故か一番かわいがり、日曜日になると近所のお得意さんのメンテナンスに私を連れて行き仕事をしておりました。すると終わって帰るときに必ず私にお菓子や季節の野菜を戴きます。後で気付きましたがお爺さんは建具の調整や、ちょっとした不具合を無料で直していたのです。今でいうメンテナンス工事とお得意さんの御挨拶回りを大切にしていたのです。今考えますにどこに行ってもお客様に大変信頼と人望のあるお爺さんでした。



 なお、次回は私の父五代目棟梁 光一郎と六代目の私がどのように規矩術を学び、伝承してきたかをご紹介させて頂きます。

田子式規矩法大和流六代目 棟梁 田子和則

月刊 住宅ジャーナル 2016年10月号(VOL95)に掲載