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未来に伝えたいさしがねの技(第10回)
◆田子家規矩術の伝承
早いもので連載を始めてもう10回目になります。毎年お盆には前橋市日輪寺町の田子家代々のお墓参りに行きますが、これを機に田子家代々で伝承して参りました規矩術についてお話ししたいと思います。
田子家代々は大工の棟梁であり、初代田子富蔵から私六代目田子和則まで、どの様にさしがねの技(規矩術)が伝承されてきたか、私が父から受け継いできました知っている限りのお話をさせていただきます。
おそらく初代の時代、大工は今と違って、ある意味徒弟制度であり親方、弟子の関係はたとえ親子であっても想像を絶する厳しさと、仕事に関しても地域に根付いた御店(おたな)に相当の信用がないと仕事ができなかったのではと思います。
そしてやはり技術力(さしがねの技)が、当時先代が勉強された文献と、残してくれた書物を見ても要求されていたと思われます。
◆田子家歴代棟梁
・初代棟梁 田子富蔵 上州南勢多郡日輪寺村に生 文政4年生~慶應3年没
・二代目棟梁 田子久平 天保14年~明治39年
・三代目棟梁 田子角太郎 慶應2年~大正14年
・四代目棟梁 田子隆司 明治25年~昭和40年
・五代目棟梁 田子光一郎 大正4年~平成23年
・六代目棟梁 田子和則(筆者)
写真1、写真2は私が所蔵しています田子家歴代の棟梁から引き継いで参りました書物の一部です。
初代棟梁田子富蔵から、六代目の私の所蔵もしくは書き残したものが含まれております。
特に写真1の3巻の巻物は、三代目棟梁田子角太郎が学び習得した内容が詳細な図面と共に記されており、その努力の程も伝承されております。
◆初代棟梁 田子富蔵
先ず田子家の初代棟梁から紹介いたします。
富蔵の資料は少なく初代が所蔵し勉強していたと言われる本と、お城に纏わる本があり、五代目(光一郎)の話によると富蔵は藩の出入りの大工であり、絵が非常にうまい人だと聞いております。江戸日本橋の本を所持しており、その本に富蔵が描いた絵といわれる物がたくさんあります。
また、武家雛形目録の本が数冊あり武家の間取り、馬小屋の造りから馬の餌箱の大きさまで記された、武家に纏わる机から、馬の爪切り台の寸法までこと細かく、武家が使う生活用品と城で使う、今でいう業務用品の寸法本、ここにはさしがねの吉寸法での割り付け寸法が随所にみられ、唐尺の寸法が使われているように思います。
このような文献からもお城関係の大工の仕事をしていたと思われます。
◆二代目棟梁 田子久平
初代の棟梁富蔵が御城出入りの仕事をしていたと思われ、二代目久平もおそらく藩関係の仕事をしており、かなりの職人を抱え認められていたと推察されます。
二代目久平が勉強していた当時の本には、田子久平源輝久と記されておりこれはそれなりの立場が認められ仕事内容もそれなりに評されたと推察ができます。
そして二代目久平は社寺関係も相当の木割・規矩の勉強を重ねたと聞いております。
これは初代富蔵が長男久平に対してかなりの教育をして勉強させ、久平を育てたのに違いないと推察されます。そして田子家では一番頭が良く私の父光一郎が偉業を成すきっかけとなった久平と久平の妻(のぶ)さんの子供、長男角太郎が誕生します。角太郎も相当の教育と厳しい育て方を父久平から受け、勉強に勉強を重ねた方と聞いております。
そして角太郎は若いとき19歳で東京に勉強に出て、それなりの棟梁に修行をして腕を磨いたと聞いております。
なお次回は三代目、四代目についてご紹介する予定です。
田子式規矩法大和流六代目 棟梁 田子和則
月刊 住宅ジャーナル 2016年9月号(VOL94)に掲載